印度武術王国

サンガム印度武術研究所が、いまだ知られざるインド武術について紹介します。

カリンガの栄光:パイカ・アカーラ(Paika Akhada)

イカとはオリッサ州のブヴァネシュワール、クールダ、プーリーを中心にいにしえのカリンガ地方で発達した武術、あるいは戦士集団。

イカの語はサンスクリット語の「歩兵」に由来し、アカーラは道場を意味する。王の支配下に、平時は治安維持を兼務する農民として働き、戦時には志願兵として参戦する民兵の教練所に起源する。

イカの軍制は剣と楯を持つパハリ Pahari と遠征時に軍を先導するバヌア Banua、そして弓矢の射手であるデンキヤ Dhenkiyaという三つの階級で成り立っており、行軍の際には特定のクシャトリヤ集団カンダヤット Khandayat によって率いられた。

王からは徴税の免除や補助金の支給など様々な特権を与えられ、パイカとしてのアイデンティティの元に一致団結し、各地域において隠然たる勢力を誇る特異な集団だった。

コスチュームに身を包んで演武してくれたパイカ・チーム

現存するパイカにおいて使われる武器アイテムは稽古用の竹(籐)棒から始まり、カンダと呼ばれる直刀と楯、ダンパッタと言う前腕の半ばから拳までをカバーするガードの付いた直刀、その竹刀版とも言えるカシャカシャと音を出す模擬刀、インドに一般的なタルワール曲刀とその3mにも及ぶ巨大バージョン、更にクシュティのページでも紹介したムクダルや鉄棒と鎖を組み合わせた巨大なレジムの様な鍛錬具など、多彩を極める。

もちろんここでも、筆者が専門とする棒術の回転技は健在だ。

かつてはケララ州のカラリパヤットに匹敵するような総合武術だったと想像されるが、現在は残念ながら武術というよりもトライバル・ダンスの様にしか見えず、主に祭礼時などのアトラクションとして演じられている。

だが彼らは、史上有名なカリンガ戦役においてアショカ王の侵略に対して徹底的な殲滅戦で抵抗し、アショカ没後にはチェーティ朝のカーラヴェーラ王を立て、北インド一帯から東南アジアにまで勢力を誇ったカリンガ人の末裔だ。

現在でもマレーシアではインド人の事をカリングと呼ぶように、彼らは一時期南方アジアの覇者であったのだ。例え現在では「ダンス」にしか見えなくても、その背後には軍事・武術に長けた勇猛果敢な資質が隠されているのではないのか。

筆者はそんなカリンガの特殊性を鑑み、興味を持って歴史を紐解いたのだった。

チェーティ朝滅後、カリンガにはいくつもの王朝が興亡した。その後ムスリム勢力の支配が拡大する15~16世紀、オリッサからタミルナードゥのカーヴェリー川北岸に至る広大な領域を支配したガジャパティ朝(Gajapatis)の時代に、現在に至るパイカ・アカーラの基礎が整備されたようだ。

そして1572年、下剋上によって一時野に下っていた地方領主の息子ラマチャンドラデーヴァ(Ramachandradeva I)は、パイカの協力を得て(!)現在の州都ブバネシュワルの西方に位置するクルダ(Khurdha)にボイ朝(Bhoi)を建て、市街南方に位置するバルネイ丘陵の麓にクルダ城砦を建設し、周辺領域を支配下に治めたと言われる。

クルダ城砦に拠って立つボイ朝は、その後オリッサ全域がムガル帝国などムスリムの侵略勢力、次いでマラータ軍の侵攻にひれ伏す中、1803年に至る231年もの間存続する。もちろんその背後には勇猛精強なパイカ軍勢の威力があったのは間違いないだろう。

そして1803年、かつてはインドの覇者であったムガル朝さえをもその「保護下」に治め、ほとんど全てのインド領域をその手中に収めたイギリス東インド会社は、最後まで屈せず抵抗するボイ朝の支配域に侵攻する。

マラータ軍およびパイカを糾合したオリッサ軍が連携するインド側の抵抗は熾烈を極めた。しかし兵力において圧倒する英軍には敵わず、まずカタックに集結するマラータ軍が落ち、オリッサ軍は文字通り最後の砦となったクルダー城砦に籠り最後の決戦を挑むも、3週間に及ぶ激闘の後、ついに陥落する。

ここにイギリスによるインドの植民地化は、ついに完成したのだ。

しかしパイカの熱き魂は決して死んではいなかった。

オリッサに支配を確立したイギリスは他州からインド人官僚を集め、悪名高い『二重支配』によってオリッサ人の権利を踏みにじっていく。

おそらく最後の最後まで抵抗し続けたオリッサ人に対する憎悪は激しく、その統治の方針は苛烈を極めた事だろう。中で最も冷や飯を食わされて弾圧の憂き目にあったのが、他ならぬパイカの人々であった。

イギリス側にとってパイカの存在が対英抵抗軍の主力であったのは明らかだ。「パイカを徹底的に無力化する事こそが、支配の確立の為には必須である」と考えた植民地行政官たちは、それまで認められていたパイカの様々な社会的特権をはく奪し、王から下賜されていた農地を奪って小作農に追いやり、追い打ちをかける様に重税を課していく。

もちろんパイカ以外のオリッサ人も過酷な収奪に喘いだのは同様だった。彼らの不満は地下深くで沸々と煮えたぎるマグマの様にその力を貯め、程なく爆発する時を迎える。

あのクルダー城砦の陥落からわずか13年、1817年4月1日、パイカを始めとした志願兵によって結成された反乱軍が、突如一斉に蜂起したのだ。

最後のボイ朝軍司令長官バクシ・ジャグバンドゥ(Baxi Jagbandhu)に率いられたパイカの軍勢は、主力となって一気にクルダー市街中心部に侵攻し、激戦の末4日には英軍を駆逐する事に成功、クルダー城砦を奪還する。

勢いを得たインド側の反乱は周辺の主要都市に燎原の炎の如く広がり、多くの英兵やその協力者であるインド人を殺害したが、戦時戒厳令を布いたイギリスは各地から兵力を集結し、ついに4月17日、クルダー城砦は再び陥落し英軍は反乱軍鎮圧を果たす。

しかしパイカの抵抗はここでも終わらなかった。

からくも逃れたジャグバンドゥとパイカを中心とした残存兵力は、周辺の山岳地帯に逃げ込み、なんと8年にもわたるゲリラ戦を敢行したのだ。

ゲリラ掃討の為に、イギリスは軍事行動は勿論、主だった指導者に賞金首をかけたりあるいは家族を人質にとったりと、ありとあらゆる手段を用いたが、彼らを一掃する事は敵わなかった。

已む無くイギリスは恩赦を交換条件として降伏する様に王族を使者として説得させ、1825年5月27日、ついにジャグバンドゥ達ゲリラは抵抗を止め山を降り、ここに長きにわたるパイカ達の輝ける戦いの歴史は、静かに幕を閉じたのだった。

しかし、当時世界最強だったイギリスの軍事力をもってしても、パイカの軍勢を完全に攻略する事は敵わなかったとは!戦闘能力にしてもそうだが、何よりもその反骨精神には恐るべきものがある。

筆者は彼らが歩んだ波乱に満ちた道のりを辿り終えた時、戦慄を禁じえなかった。

f:id:Parashraama:20190509000131j:plainイカ・アカーラ、勇者の末裔たち。プーリー近郊のヌアガオンにて

おそらく反乱の平定後、パイカは英植民地政府によって更なる徹底的な弾圧にさらされ監視下に置かれたのだろう。その強大な力は根こそぎ牙を抜かれ、かろうじて単なるスポーツ・文化レクレーションとしてのみ、細々と存続を許されたのだ。

現在の彼らの姿が、ほとんど武術的実践性を失ってしまったのは、決して故なき事ではなかった。その歴史を踏まえた上で改めてパイカの演武を見る時、誰が一体「単なるマーシャル・ダンスに過ぎない」などと言えるだろうか?

今日、クルダー城砦はその史実に基づき、1804年に陥落した自由インドの最後の砦であると同時に、1817年に決起したインド独立闘争の最初の砦、として顕彰され、パイカ・アカーラの伝統はその象徴として脚光を集めていると言う。

従来、一般に対英インド独立闘争の嚆矢は1857年のセポイの乱(最近はインド大反乱、インド側の呼称は第一次インド独立戦争)であると教科書にも記載されてきたが、実はこのパイカを主力としたオリッサにおける1817年の反乱こそが、独立闘争の真の幕開けではなかったか、として見直しが進められたらしい。

インドの歴史においてパイカ戦士が果たした役割とその栄光は、決して忘れ去られるべきものではない。政府などの公的な援助によって文化遺産として保護され、末永く継承されるよう祈るばかりだ。

参考資料 Paika akhada - Wikipedia Paika Rebellion - Wikipedia History of Campus :: Indian Institute of Technology Bhubaneswar Paika Rebellion of Odisha 

 

 

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