印度武術王国

サンガム印度武術研究所が、いまだ知られざるインド武術について紹介します。

シーク教聖戦士の武術:ガトカ(Gatka)

ガトカ(ਗੱਤਕਾ)はパンジャブ州の伝統武術でシーク教徒によって伝承されている。語義的にはガトカは『棒』を意味し、竹刀と同様、剣を模した棒による戦いの訓練に由来する。

シーク教は頭にターバンを巻きごっつい髭を生やした信徒の姿が印象的なインドでは比較的新しい宗教で、15世紀の末頃開祖グル・ナーナクによって創立された。イスラムとヒンドゥを批判的に融合した、反カースト主義に立脚する平等普遍思想を掲げる一神教だ。

ガトカは彼らの民族的・宗教的アイデンティティを象徴する文化として20世紀後半に組織的に復興され、青少年のスポーツ武術あるいはショー・パフォーマンスとして活発に実践されている。

インド全体が国を挙げて経済発展に浮かれる中で、シーク教徒はその強固な宗教的保守性と共に、伝統的な『インドらしさ』の保存に大いに一役買っている。

何故シークがそこまで保守的であり、同時に尚武の気風に富んでいるのかはその歴史に負うところが大きい。

ムガル帝国の時代、シークはその民主と平等思想そして何よりもどのような強権にも屈しない篤き信仰と闘争心によって、常に弾圧の最前線に立たされ続けた。その間、多くの戦争が行われ、グルと呼ばれる指導者を含め多くのシークが犠牲となった。

この対ムガル帝国抵抗運動の時代に、シークの著しい戦闘的な性格が育まれ『聖戦士』の理念が確立、同時にその武術の基礎が築かれたのだろう。

やがて不屈のシーク魂はムガル帝国崩壊に乗じてついに独立を獲得、西から来るアフガン勢力をも駆逐して、1799年にはラホールを首都とするシーク王国を建国する。

このシーク王権の治世下では多様性が尊ばれ、全ての宗教が平等にその権利を保障されクリスチャン、ムスリム、ヒンドゥも分け隔てなく施政に参与したと言う。

しかし独立王国の繁栄は長くは続かず、19世紀半ばには二度にわたるシーク戦争の末にイギリスによって併合されてしまう。そしてシークの持つ高い戦闘能力に目を付けた植民地政府は、シーク教徒の権利を保障すると同時に彼らを自らの軍隊の主力として大量にリクルートし、インド各地の主要都市に配備していった。

1857年に勃発した全インド的反英民族闘争であるインド大反乱セポイの乱)において、シークは英国側に立ってこれを鎮圧、以後シーク教徒は基本的に対英協調路線をとり、その植民地支配に協力していく。

東進するアフガン勢力とイギリスとの間で1897年に勃発したサラガリ戦争においては、孤立したたった21人のシーク部隊が10,000人にも及ぶアフガン軍と数時間にわたり戦闘し続け、誇り高いシーク兵たちは降伏よりも名誉の戦死を選び玉砕、イギリス議会は挙げて彼らの栄誉を称え勲章の授与をもってこれに報いたと言う。

《戦史に名高いこの『サラガリの戦い』は、2019年に「KESARI (ケサリ 21人の勇者たち)」として映画化され大ヒットを記録した》

イギリスの支配が確立すると、シークの実践的武術は練兵の基礎トレーニングと言う意味合いを強め、剣の代わりに竹や籐製の模擬刀(日本で言う竹刀)の使用が中心となり、これが本来棒を意味する『ガトカ』という命名の元となった。

やがて彼らシーク部隊はイギリス本国の軍隊へも進出、第一次大戦では黒きライオンの異名で恐れられ、戦場には常に聖典グル・グラント・サーヒブが携行されたと言う。

続く第二次世界大戦では英インド人部隊の60%を占める主力となったシーク兵が、マレー半島で日本軍と激突、対日ミャンマー戦線やイタリア半島でも目を見張る活躍を示した。

しかし強固な信仰心と戦闘性を併せ持つシーク達の特性は、インド独立後の1970~80年代には急進的指導者ジャルネイル・シン・ビンドランワレの下パンジャブの分立独立運動へと突き進み、結果的にインド政府による聖地黄金寺院への武力侵攻という流血の惨事を引き起こした。

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今は平和な黄金寺院も、常に槍を持った衛兵に護られている

このようなインド政府の対応は、おそらくイギリス植民地支配下のインドにおいて英軍の象徴としてインド民衆支配の最前線に立ったシークに対する、大きな反動ではなかったかと思われる。

しかしムガル帝国に抵抗した時も、イギリス植民地政府に協力した時も、そして独立インド共和国政府に闘争を挑んだ時も、常に彼らの根底にあったのは自らの信仰を守り抜く、という一念であったのは間違いないだろう。

闘争と流血に彩られた歴史を背負ったシーク達のプライドと侍スピリットは、俗化する現代インド社会の中でひときわ異彩を放っている。その象徴とも言えるものが、ガトカ武術なのだ。

アナンドプル・サヒーブのニハング・アシュラムによる演武

今日でもその様な聖戦士の伝統を守り、特にニハングと呼ばれる侍クラン達の間でこのガトカが伝承・稽古されている。

このニハングは、一般的なグルドワーラ寺院とは異なった独自のアシュラムを構え、在家ではありながら武術稽古を中心とした自給自足の修行生活を送る特異な侍集団であり、その練度の高い武術パフォーマンスを各地で巡業する事によってシーク聖戦士の存在をプロモーションしつつ収入を得ていると言う。

また近年ではシーク・アイデンティティを称揚する一般的な青少年スポーツとしてもガトカ人気は高く、女子の参加も多く見られるようになっているらしい。

道場は黄金寺院のあるアムリトサルやアナンダプル・サヒーブなどの聖地に集まっている。その印象的なヴィジュアルと共に、本来の北インド武術の原風景を残す貴重な存在だ。

使われる武器はインドに普遍的な竹や籐の棒に始まってタルワール刀と楯、ダガー、短刀ククリ、リング状の投擲武器チャクラムなど多岐にわたる。

一部の師範の間では汎インド的な武器技の科学であるシャスタル・ヴィディヤや高度な徒手技を含むマラ・ユッダなども伝承されているらしく、機会があれば取材したい。

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ニハングの聖戦士たち。彼らは基本的に在家であり若い世代も順調に育っている

上のビデオの前半で紹介している『チャッカル』は車輪を意味するリングの回転技で、聖なる車輪兵器『スダルシャン・チャクラ』をシンボライズしたものだ。

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ヴィシュヌ(クリシュナ)神の破邪の投擲兵器スダルシャン・チャクラを模したチャッカル

インド亜大陸の北西端に位置するパンジャブ州にはチャッカルがあり、最南端に位置するタミルナードゥには同じ技がチャクラ・チュトゥルーの名前で共有されている。

Silambam Fire Ring 炎の車輪の回転技

その根底にあるのが汎インド的な『聖なる車輪』の思想であることは言うまでもない。

シランバムラティ・ケラで高度に発達している棒術の回転技はシークの間でもマラーティの名で継承されており、棒術の回転技をより具体的な車輪として表したものが、このチャッカルやチャクラ・チュトゥルーなのだろう。

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聖なる車輪を武器とするクリシュナ。クリシュナ - Wikipediaより 

一方、ニハング侍の伝統的な青い衣装とその装飾は、シヴァ神の青い体色とそのいで立ちを模倣したものだと言う。

f:id:Parashraama:20190621191809j:plain槍を手に刀を腰に街中を闊歩するニハングの聖戦士と、青い身体のシヴァ(Shiva - Wikipediaより)

ヴィシュヌ・クリシュナ神の破邪の武器スダルシャン・チャクラを模したチャッカルといい、シヴァ神を模したニハングの姿といい、シーク教と言うものが基本的にその思想の多くをヒンドゥ教に負っている事が良く分かるだろう。  

歴史的に観ると、時にヒンドゥ達を弾圧しあるいは弾圧され、戦火を交えて来たシーク教徒だが、多くのイデアやシンボルを共有するインド教ファミリーの一員である事は間違いない。

彼らの様な強固な信仰を持たない異邦人にとっても、シークの存在はまず第一にそのヴィジュアル的なインパクトによってインドらしさを象徴していると言っても良いだろう。

2018年の末に久しぶりにインドを訪問した際、私はまずコルカタに入り、そこからダイレクトにバングラデシュに渡り1ヶ月ほど旅をした。その後インドに再入国したのだが、何でもない西ベンガルの地方都市でごく普通のシーク市民がターバンを巻いている姿を見た瞬間、「インドに帰ってきた!」という強い感懐に突き動かされた。

武術オタクなインド・フリークとしては、シークらしさを最もヴィヴィッドに象徴するガトカ武術とニハングの聖戦士たちを、末永く応援し続けたいと思う。

参照:Sikhs in the British Indian Army - Wikipedia Gatka - Wikipedia https://www.indiangatkafederation.com/ 

 

 

 

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