ダルマ禅師の武術
日本武術の源流としてのインド武術
伝説によると、中国の少林寺で禅の開祖となったボーディ・ダルマ(達磨大師)は、現タミルナードゥ州のカンチープラム出身の王族とされ、彼が南インドで学んだタミル武術(カラリパヤットの源流)を禅と共に中国に伝え、それが中国武術の一大潮流になったといわれる。(達磨 - Wikipedia)
達磨について、最近ではその実在性について疑う見方も根強いのだが、様々な伝説に彩られた彼の強烈なイメージに仮託された一人(あるいは複数)のインド人僧が実在し、中国に渡来して禅と武術を伝えた事は、まず間違いのない事実だろう。
中国武術が沖縄に渡って唐手になり、それが本土に渡って空手になった歴史を考えれば、空手のルーツは遠くインドにもその淵源を発する事になる。
インドでは「ダルマ伝説」はもはや定説となって、様々なプロモーションに使われている
それでは空手以外の伝統武術についてはどうだろうか。古代から中世にかけての日本の社会文化は仏教を通じてインド文化に大きく影響されている。武術と言う文脈においても、その影響が考えられないだろうか。
ここでは相撲と柔術など非打撃系の徒手格闘術に的を絞って考えてみたい。両者に共通する起源として中世日本における宮廷古武術『手乞い』の存在がしばしば言及されるのだが、更にルーツを遡るとそれは古事記にまで行き着くと言う。
古事記とは天皇を頂点に戴く大和朝廷による建国の歴史を神話的に記述する内容を柱とした様々な伝承の集成であり、基本的に大陸からの、あるいは大陸の影響を強く受けた先進渡来文明(侵略神・侵略者)と日本の土着文化(土着神・先住民)との対立・闘争・融和という構造を軸にしている。
件の『手乞い』が登場するのは、正にその、権力の明け渡しを求める侵略神タケミカヅチとそれに抗う土着神タケミナカタとの戦いのシーンに他ならない。
出雲の伊耶佐小浜(いざさのおはま)に降り立った建御雷神(タケミカヅチ)は、十掬の剣(とつかのつるぎ)を波の上に逆さに突き立てて、なんとその切っ先の上に胡坐をかいて、大国主(オオクニヌシノカミ)に対して国譲りの談判をおこなった。大国主は、国を朝廷に譲るか否かを子らに託した。子のひとり事代主は、すんなり服従した。
もう一人、建御名方神(タケミナカタ、諏訪の諏訪神社上社の祭神)は、タケミカヅチに力比べをもちかけ、手づかみの試合で一捻りにされて恐懼して遁走し、国譲りがなった。このときのタケミナカタ神との戦いは相撲の起源とされている。
その原文は以下になるようだ。
如此白之間、其建御名方神、千引石擎手末而來、言「誰來我國而、忍忍如此物言。然欲爲力競。故、我先欲取其御手。」
オオクニヌシと タケミカヅチ達がタケミナカタの存在について話しあっていると、
タケミナカタ が、千引石(千人で引いてやっと動くくらいの重い岩)を、指先で軽々と持ちながらやって来て言った。
「私の国でコソコソ話しているのは誰だ。そんなことをするより、力比べをしようじゃないか。私が先にあなたの手を取るぞ」
故令取其御手者、卽取成立氷、亦取成劒刄、故爾懼而退居。
タケミナカタがタケミカヅチの腕を掴むと、その腕は氷柱になり、また、剣の刃にもなった。
タケミカヅチの腕を触ったことで、その感触に驚いたタケミナカタは、思わず後退りしていた。
タケミナカタは、千人力の腕力だけでなく、腕を掴んだだけで相手の力量を見定める賢明さも併せ持っていたのだ。
爾欲取其建御名方神之手乞歸而取者、如取若葦搤批而投離者、卽逃去。
タケミナカタは、今度は自分の手を掴み返してほしいと頼む。
言われた通りタケミカヅチはその手を掴むと、葦(イネ科の植物)を摘み取るように、タケミナカタの腕を掴み潰し、彼を放り投げてしまった。
そしてタケミナカタは勝負の場から逃走してしまう。
これは一般に、無双の力を誇るタケミナカタが(おそらくは大陸仕込みの)高度なタケミカヅチの投げ技に敗れたのだと考えられている。この『手乞』におけるタケミナカタ的な力士の資質とタケミカヅチ的な『技巧』の性質が相互に影響しながらやがて分かたれ、前者が神事として現在の相撲(角力)になり、後者が宮中のお留技となって日本の伝統柔術のひとつの祖となったらしい。
ちなみに合気道の開祖植芝盛平も師事した大東流合気柔術の中興の祖武田惣角は、自らの武術の源流をタケミカヅチの『手乞い』に求めていると言う。
このタケミカヅチが使った高度な武の技巧。恐らくは優れた他の文化と共に大和朝廷の祖によって大陸からもたらされた武術の体系だったのだろう。
その後畿内に成立した大和朝廷以降、日本の歴史は仏教をはじめ常に大陸中国からの直接的な影響下に進展した。相撲や柔術が手乞いと言う祖型から分かたれ発展し確立されていくプロセスでも、やはり先進国である中国大陸からの影響が大きかったと考えるのが妥当だ。
古代より文明が栄え幾多の王国の興亡を経験した中国大陸において、戦場の技術である『武』が辺境の地である日本より遥かに高度に発達していたのは自然の成り行きだろう。
仏教伝来と共に日本がようやく文明国家としての体裁を整えていく過程で、多くの大陸人が日本に渡来し様々な文化を伝え、その中に優れた武術家が含まれていた事は想像に難くない。
その大陸(中国)武術の大きな源流のひとつがインド武術である以上、相撲や柔術などにも中国大陸経由でインド武術の血が流れている可能性は決して否定できないし、後段で詳述するようにインド人武術家が直接来日し影響を与えた可能性さえ考えられる。
そのひとつの証拠とも思えるものが、南インドの伝統武術カラリパヤットだ。そこで日常的に使われる稽古着の巻き締め型のふんどしカッチャが、相撲のまわしと酷似しているという事実がある(インドには六尺に相当するランゴットという日常タイプのふんどしもある)。
www.youtube.com カラリパヤットの巻締型褌「カッチャ」
世界でも余り類を見ない何重もの巻締め型褌のルーツは、ひょっとするとインドに起源するのかも知れない。
カッチャ褌を締めたカラリパヤットの練習生たち。その坐法は蹲踞に通じる
それは褌だけではない。カラリパヤットの体錬システムは相撲のそれとかなり類似している。股割に象徴される柔軟性の重視、片足を高々と上げる四股に似た蹴り上げや、蹲踞に象徴される非常に低い姿勢と下半身の鍛錬。 見ているとスリムで敏捷な相撲取りにも見える。
また、これはインド各地を旅し様々な遺跡や博物館を巡って気付いたのだが、バルフートなど紀元前後の非常に古い仏教遺跡から発掘されたレリーフには、まわしをつけた体格のいい力士の様な彫像が見られる。
カッチャに似た下帯を締めた体格のいい男(戦士or戦闘神?)がブッダの法輪を頭上に掲げている
仏塔を囲む欄楯の装飾。体格のいい裸の男が化粧まわしに似た褌を身に着け腰を深く落している
これらの彫像は、宗教実践における日常風景から採用されて象徴的にデザイン化されたと見るのが自然だろう。これら偉丈夫たちは、宗教的な聖性という文脈において何らかの象徴的な役割を担っていた。
更に言えば、相撲の弓取り式において弦の張られていない弓を回す姿は、インド武術の共通言語として全国に普及する棒術の回転技そのものだろう。
www.youtube.com 弓棒を回す姿はインド棒術の回転技、化粧まわしは欄楯の彫像そのもの
日本の相撲は現在では日本神道の神事という事になっているが、古代から中世にかけては大陸から渡来した『御仏』こそが至上の超越神格として一世を風靡していた。これは当然、インド本国におけるブッダの神格化とも軌を一にしている。
欄楯の彫刻に見られるように、力士(戦士)による象徴的な仏教祭祀が古代インドで行われていたとしたら、それが仏教と共に古代日本に移入された可能性も個人的には考えたくなる。
日本の力士と同様、インドには最近流行りの『バーフバリ』と言う言葉に象徴される(タケミナカタ的な)「剛力信仰」が伝統的に存在し、それを体現するクシュティという武術スポーツが現存する。
それは今日では中世以降のイスラム文化の強い影響下に「レスリング」化してしまっているが、その本来の姿は『相撲』に近かった可能性はないだろうか。
そしてそれら力士たちが、神格化されたブッダに捧げる祭祀(プージャ)において、聖戦士として重要な役割を担っており、だからこそストゥーパ欄楯などに刻まれたのではなかっただろうか。
現代におけるクシュティもまた、消滅した仏教に替わってヒンドゥの神々に捧げられる神事という側面を多分に保存している。
www.youtube.com 伝統相撲クシュティの稽古風景。そのヘビー級の試合は圧巻だ
www.youtube.com バーフバリ的な怪力無双を追求する
一方、カラリパヤットやタミル武術には日本の柔術にも匹敵する高度に発達した関節技の体系があり、更に柔術と同様、手ぬぐいを使った制圧術さえ存在する。
関節技を中心とした体術は、もちろん中国少林武術においても広く共有されている。
カラリパヤットで多用される関節技。かなりエグいw
手拭い(ガムチャ)を使った制圧術。この後がんじがらめに縛りあげる
仏教伝来前後の古代日本には少なくないインド人僧が渡来していた。例えば752年に奈良東大寺において盧遮那仏の開眼供養に携わった導師、菩提僊那(ぼだいせんな、ボーディセーナ)は南インドのバラモン階級をその出自とする。
当時、ヒンドゥ教の圧迫などにより確実に衰退に向かっていたインド仏教は、すでに確立していた北インドからヒマラヤを越えて中国に至る陸路、及びベンガル湾岸から東南アジアを経由して東アジアにいたる安定した海上航路を通じて海外に活路を見出そうと、多くの僧を布教活動に送り出していた。
達磨大師も菩提僊那も、更に言えばスリランカに渡って現代に至るテーラワーダの基礎を築いたブッダゴーサもまた、その流れに属するだろう。
(これは現代において中共政府の迫害から海外に逃れたダライラマのチベット仏教が、欧米を始め世界に展開している事実と重なり合う。皮肉にも、そのチベット仏教の起源もまた、ムスリムの侵略によってインドから脱出した密教の伝播定着であった)
現代から想像する以上に、インドを中心に全アジア規模で展開する仏教を基軸とした国際交流のネットワークは、密にして深いものだったと思われる。
インドにおいては一般に出家した修行者と在家者の間にははっきりとした境界線が引かれており、出家者は俗事に関わる事はない。そして、出家の僧侶が遠路の旅に出る場合は、在家の商人とその警護をする武人で構成される隊商や商船に随行する事が多かった。
古代の日本に仏教僧や商人などと共に、インド人武術家(あるいはインド武術の薫陶を受けた中国人武術家)が同伴者として渡来していた事も充分にあり得る。また、達磨の例を見るまでもなく、僧侶自身が武術家であったケースももちろんあるだろう。
中国人を経由してではなく、直接インド人によってインド武術が日本に伝播し影響を与えた可能性さえ、あながち妄想とは言えないのだ。
ちなみに5世紀にグプタ朝によって創立された北インドのナーランダ仏教大学では、様々な専門履修過程の中に武術が含まれていたとする中国人留学僧の報告がある。
当時の仏教サンガは「ナーランダ仏教大学」と称されるように解脱を目指す修行道場と言うよりも、むしろ僧侶を養成する『専門学校』としての側面が強かった。
衰退の予感に怯える中世のインド仏教サンガが、長期遠路に及ぶ困難の多い海外布教を重要なミッションとして位置付けていたならば、体力の向上に資する為、更にはいざと言う時に最低限身を護るために、武術を出家比丘(学生)が修行すべき基礎科目として提供していた事は充分に考えられる。
嵩山少林寺の僧堂壁面には色の白い中国人と色の黒い南アジア人が一緒に武術稽古に励む姿が活写されている。
濃い顔のインド僧?と白く平たい顔の中国僧が共に稽古に励む Wikipedia
少林寺など印中交流のハブとなる仏教寺院を起点に、僧俗共にインド武術と中国武術の交流が活発に行われ、更にその流れが最果ての日本にまで波及していたと考えると、ブッダ達磨を崇敬するいち武術愛好家として、悠久の時を超えたロマンを感じずにはいられない。
ともあれ数千年以上に亘る長き歴史の中、真実はほとんど霧の中にとどまり確証を上げるのは非常に困難だが、これら様々な事実関係を考慮すれば、空手だけではなく、柔術や相撲などの日本古来の伝統武術の源流としても、インド武術の存在は今後ますますクローズアップされ、研究されていくべきではないかと筆者は思う。
これは蛇足だが、武の達人タケミカヅチは建御雷神と漢字表記されるように『雷』のイメージを濃厚に背負っている。そしてインドで雷神と言えばまずは正統ヴェーダに則って雷霆神インドラであり、同時に彼はリグ・ヴェーダ中随一の戦神に他ならない。
その後ヴェーダの宗教がヒンドゥ化する流れの中、インドラを凌いで急速に台頭したシヴァ神もまた優れた戦闘の神であり、カラリパヤットなど多くのインド武術が彼を始祖として崇めている。シヴァのルーツはヴェーダの暴風雨神ルドラであると言われ、暴風雨である以上雷という自然現象ともまことに縁が深い(所持する三叉戟とダマル太鼓は、雷撃と雷鳴を象徴すると言う説も)。
それらを踏まえ、そもそも日本の伝統武術の祖と崇められるタケミカヅチ自体がインド教のイメージを強く受けたもので、つまり大和朝廷の覇権確立の過程、あるいは古事記など日本神話の成立過程において、インド系渡来人の戦力、あるいはその思想が大いに影響を及ぼしていた?、という可能性について、個人的には大いに研究し華々しく仮説を展開していきたい所(例えばタケミナカタが千人力の大岩を指先で持ち上げたと言う属性は、大力のクリシュナ神がゴーヴァルダン山を小指の先で支え掲げ上げたと言う神話を想起させる)だが、現段階では限りなく妄想に近いので、この辺で次節へと移ろうと思う。
洗髄経の謎
以前、空手雑誌JKFanからインド武術についての原稿依頼があった。参考資料として編集部からバック・ナンバーを何冊かいただいて、その中に非常に興味深い記事があったので、ここでそれに触れたいと思う。それは2005年5月号の金城昭夫氏による『空手伝真録』第2回の記述だ。
『中国古代武術の日本伝来』から始まって、中国武術が歴史的にいかに日本の武術に影響を与えてきたかを詳述するのだが、『達磨大師と易筋経・洗髄経と羅漢18手』に至って、興味深く読み進めていた筆者の目線は釘付けになった。達磨大師が少林寺に禅を伝えた時、武術のトレーニング・システムも同時に伝え、それが今日まで経本や型として残っていると言う。
易筋経。調べて見ると英語ではMuscle change classicという。訳せば、『筋肉(の質)を変える(為の)古典(的教え)になるだろうか。
www.youtube.com 現代に伝わる易筋経のムーブメント
南インド出身の達磨さんが武術の達人であり、かつ禅者(瞑想行者)としても一流の先達であった事を考えれば、それはヨガ・アサナ的な調身(兼調心)、もしくはメイパヤットのような動きのあるストレッチ系のエクササイズによって、筋肉の質をその根底から変えてしまう一連の方法論だったのではないだろうか。
www.youtube.com カラリパヤットの基礎鍛錬メイパヤット
あるいは、インドでもすでに幻と言われているビャヤムVyayam(武の聖典Dhanurvedaをベースにする)系の武術的エクササイズの可能性もある。それがやがて中国的に咀嚼、発展され、金城氏の言うように気功のシステムへと合流していったとしたら・・・
www.youtube.com リシュケシに伝わる幻の体錬法「ヴャヤム」。中国武術の練功を想起させる
だが、問題は洗髄経だ。果たして、金城氏の言うような抽象的な身体の中心、さらには内臓の鍛錬を意味するのだろうか。洗髄経は英語ではMarrow washing classicと表記される。さらにmarrow を辞書で見るとそのものずばり、『脊髄』と書いてあるではないか。脊髄を洗う。一体それは何を意味するのだろうか?
ここで筆者が思い至ったのが、カラリパヤットの根底にも横たわるクンダリーニ・ヨーガの思想と方法論だった。
尾底骨周辺のムーラダーラ・チャクラに眠るクンダリーニ・シャクティが目覚めると、その稲妻のようなエネルギーの閃光は龍のように脊椎(スシュムナー)を駆け上がり、頭頂部のサハスラーラ・チャクラに至って爆発し全心身システムを革命的にリニューアルすると言う。
このプロセスを、『洗髄』、と表現したとしたら・・・ さらに羅漢18手にいたってはメイパヤットの型本数と同じではないか!
勿論、現在みられる易筋・洗髄経の錬功動作から具体的にインド系の気配を感じ取るのは難しいかも知れない。けれど、達磨伝説は到底、単なる伝説では終わりそうにない。筆者の確信は日々深まり続けている。
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